今日は13の暦において新年である。7月25日の「時間を外した日」を経て、新たな年へ突入した。今年は、「黄色い共振の種の年」。キーワードは、共振から「調律・チャネルする・呼び起こす」、黄色い種から「開花・目指す・気づき」である。なんだか、宇宙との共同創造が加速しそうな予感のするキーワードばかりな気がしてワクワクする。そして今日は、なんとライオンズゲートの始まりの日。今年は7月26日(土)〜8月12日(火)までがライオンズゲート期間である。新年とライオンズゲートの開門が同日だなんて、嬉しいシンクロニシティだ。
さて、昨日から私は「水」に関する情報がたくさん飛び込んできている。観た映画の中で、「水は全ての記憶を有する」という言葉が出てきた。そして今日は図書館から借りていた本を読んでいると、ここでもまた水の話が出てくるではないか。水はどうも、太古の昔を含めて全ての記憶を有しているらしい。以前キネシオロジーテストでは、「水は生物である」という質問に対しYESという回答を得た。水の中にはソマチッドという素粒子?が存在しているらしく、今朝は水を飲んでいると「自分を愛することが記憶を開く鍵である」とソマチッドたちが教えてくれた。多分。いや、自分でも頭がおかしいと思っている。だが、わたしの思考の中では出てこない言葉なので本当のことなのだと思っている。
先月、「魂には記憶をしまっておける扉があるんだよ。時が来たら扉が開くようになっているよ」という説明を受けながら、ポップで可愛らしい心臓の絵が背景に映し出されている夢を観た。多分夢の中で講義を受けたのだと思う。今でもそのかわいい心臓の絵が思い出せるほど、強烈な夢だった。自己愛が記憶を開く鍵であり、またその扉は心臓にあるということなのだろうか。
そして、パラレルセルフは、わたしにはやっぱりブログを書いてほしいらしい。書くことは確かに楽しい。わたしの自己統合の道を赤裸々に文章にすることが大事なのだとか。誰に読んでいただけるのか、そもそも需要があるのかもわからないが、言われた以上は書こうかとも思っている。引き続き緩やかに更新していこうかと思う。
思えば昨年のライオンズゲート期間も、ブログを書けとパラレルセルフから怒られた。最近は酒の飲み過ぎだと怒られている。わたしの意思で、酒は解禁することにした。酒を飲んだ時のほうが自分の感情に敏感になれるのである。だが、酒を飲んだ翌日は、決まって頭頂部が詰まったような感覚になる。デメリットも大きいように感じている。
近況報告はここまでにして、タイトルの件についてお話したい。6月に友人と伊勢神宮へ行ってきた。大学生のころに伊勢神宮へ行ったことがあったが、そのときは詳しい人に連れられるまま、自分の意思よりかは引っ張ってもらうがままに参拝したことを覚えている。今回はまた違った気持ちを味わうことができたので言葉に残しておきたい。
今を生きるこの瞬間、全てが存在しているとスピリチュアルの世界で言われることがある。わたしはどうもその言葉は腑に落ちておらず、よく理解していなかった。それが、伊勢神宮の参拝を経てようやく実感として得られることができたのである。
今回伊勢神宮へ連れて行ってくれた友人は神社の神主の孫という、いわゆるスピボンボン(スピリチュアルボンボン)である(※このスピボンボンという言葉は、わたしの大好きなYouTuberのすずめ組chのカケルさんが生み出した言葉である。彼らのチャンネルは最高なのでぜひご覧いただきたい)。
その友人は、せっかく行くなら特別参拝(御垣内参拝)をしようと提案してくれた。学生のときに連れて行ってもらったときにもm特別参拝をしたことがあったので、大人になってからの参拝はまた異なる経験かと思い、そうしよう!と特別参拝をする運びとなった。この決断が非常に良かった。
特別参拝は一般の参拝と異なり、言葉の通り垣の中に入ることができる。しかも、志願をした団体ごとに中へ入れてもらい、より近くで参拝することができる。志願すれば誰でもできるのだが、ちょっと特別な参拝なのだ。(結構ルールが厳しく、もし特別参拝をされる場合は事前の情報収集がマストである。この暑さの中で礼服で行ったので、滝汗をかきながら参拝した)
ここから神域ですという垣の中へ足を踏み入れると、とんでもない無の世界だった。外にはたくさんの人がいるにも関わらず、この世界にはわたししか存在していないと錯覚するような、非常に静かで厳かな世界であった。ゼロポイントという言葉がしっくり来るような、音も物質も何もかもが無い、そんな世界なように感じた。だが、そんな静けさにも関わらず、満たされているのだ。何が満たされているのか分からない。だが、全てがここに有るのである。
ああ、これが「全て有る」という世界なのだと思った。このゼロ地点にいる瞬間、全ての可能性がその場にあった。ゼロだからこそ、全てが選べる。全てを得ることができる。どれを選択するかは自分次第。そんな世界であった。それを教えてもらいに行ったと言っても過言ではないくらい、それくらい特別な経験であった。
ちなみに外宮も内宮もどちらも参拝したのだが、内宮の参拝を終えて鳥居から一歩足を踏み出した瞬間に、とんでもないくらいに地面が揺れた。いや、実際は揺れていなかった。わたしだけが一人、一瞬だけパニックに陥っていた。「こんなに揺れているのになぜ誰も反応しない!?」と思っていたのだが、それを感じていたのがわたしだけだったようだ。これが何を意味しているのか分からない。背中を突き飛ばされたような感覚の地面の揺れだったので、天照大御神の激励だったのか、はたまた無礼者!の怒りだったのか。未だに意味はわかっていない。一応感謝を伝えに参拝した気持ちはあったのだが・・・。もしかしたらなにかわたしの心に気に食わない何かがあったのかもしれない。そうではなくて、激励であってほしいと心から願っている。
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