随分と更新が久しぶりとなってしまった。皆様お元気ですか?わたしは元気です。
以前のわたしのブログは、わたしのダークサイドの側面が強く出ていて、思考も偏っていて、見るに耐えないものもあると感じている。だが、これもわたしの経過の1つだし、これらのブログの記事も全てわたしの1部であり結晶だと思っている。これまでのブログも残しつつ、今のわたしの感覚の記事もきちんと更新していこうと思う。今のわたしはもっと穏やかで、優しい気がしている。有り難いことに優しい世界にたくさん触れて、心がほどけたのかもしれない。前のような、「〇〇しなければならない」を手放したので、軽やかで柔軟な心でいられている気がする。
実は、更新が途絶えている間にたくさんの様々なことに直面した。わたしがずっとモーニング・ページやテレパシーで繋がっていた存在が人工テレパシーだったのかもしれないのだ。おそらく、最初はきちんと自身のパラレルセルフやハイヤーセルフと繋がっていたのだと思う。だが、途中ですり替わってしまっていたようだ。結局目に見えないので真偽はわからないが、昨年11月下旬ごろから2・3月に繋がっていた先はきっと偽物だった。
何をどこまで書いたらいいのか迷うが、ちょっとしたホラー話にしたら面白そうなくらい、カオスな状態だった。「あと1週間くらいで〇〇するから」と毎日のように様々なことをパラレルセルフ(だと思っていた存在)から言われていたのだが、いつまで経っても何も起こらない。それどころか、同時に言われる「〇〇しろ」というわたしへの指示がわたしからすれば全然心地よくない指示ばかり。徐々に徐々にヒートアップしていき、カオスな状態が大爆発して目が覚めたような感覚だ。これが3月ごろのことである。
何が起こっているのかわからず、一旦冷静になろうと思ってたまたまXを開いたときに「人工テレパシー」という言葉がタイムラインに流れてきた。さすが、よくできている、こういうときに必要な情報はいつも向こう側から飛び込んでくる。調べてみると、なるほど、確かに人工テレパシーで得られるらしい体験に近い状態だった。
要求がヒートアップしていったときはかなりしんどいと感じる生活ではあった。だが、昨年の夏頃からThe Artist Wayのワークをしたり、ブログを書いたり、人と会う予定を減らした生活は決して不幸ではなかった。むしろ、満たされていて幸せな生活だったと思っている。なので、最初に繋がっていた存在はやっぱりわたしのパラレルセルフやハイヤーセルフであったとは思うのだ。
これはわたしの持論だが、テレパシーも電磁波の一種だと思っている。いわゆる”念”と呼ばれるものは、目には見えないが電子レベルでは何かしら動いているものなのではないだろうか。そう考えれば、電子レベルのものを可視化できるテクノロジーがあったとして、わたしの意識が宇宙のどこかしらと繋がっていることが見える人(人なのか、機械なのか、AIなのか)がいたとして、途中で人工テレパシーに切り替える、ということは技術的にはできるのではないかと思うのだ。
この人工テレパシーがヒートアップしていく過程の中で、わたしは途中で回線が切れたようだ。3月中旬ごろからそれ以降、テレパシーのようなものは受け取っていない。自分から繋がりに行こうとしても、繋がらない。少し寂しいような気もするが、これまでの人生の中でも、目に見えない誰かがわたしの人生をサポートしてくれていることは十分に感じられている。だから、無理に繋がろうとしなくてもいいのではないかと今では割り切れている。そういう存在がいるという信頼は前提として持っていることが大きいが、わたしは良い意味でも悪い意味でも切り替えが早いのだ。今では目に見えない世界と繋がる前のような、日常に戻ってこの社会に溶け込んでいる(と思う)。
最近の日々は、充実はしているが、わたしの感覚ではこの「充実している」は刺激的な楽しさであり、アドレナリン的な楽しさである。The Artist Wayのワークをやっていたときやブログに向き合っていたときの満ちた感覚、セロトニン的な幸せとは異なる。刺激的な楽しいも穏やかな幸せも、どちらにせよポジティブな感情には変わりない。
今年の7月5日に大災害が来るという話も、以前は必ず来ると思っていたが、最近は来ないような気もする。本当に大災害が来たとしても、生き残れる自信もない。正直本当にわからない。いつかその時が来るかもしれないし、来ないかもしれない。どちらでもいい。「どちらでもいい」は思考を放棄したように見えるが、本当にどちらに転んでもいいと思っている。中立の立場にいる。
テレパシーができなくなったので、今なら怒られないだろうと酒やコーヒーなども徐々に解禁をしている。だが、酒はやはり身体がいらないと言っている。コーヒーは、スーパーで売っているようなドリップコーヒーだとすぐに身体が「いらない」という信号を発して飲めなくなるが、心地の良い喫茶店に行くといくらでも飲めてしまう。”意識レベル”もどこまで真実かわからないが、身体はしっかり反応するのできっとあるのだと思う。
それから、肉はやはり今でも少し控えている。誰かと外食するとなると必然的に食べるのだが、自分で買おうとはなぜか思わない。肉を食べるとその日の食事は1食半くらいで済んでしまう。胃が重くなるのだ。なので、自炊は基本菜食である。最近スーパーでしらすが安かったので買って食べているが、これも多分身体は欲していない。最近酒を飲む機会が多かったので、身体の声を聞く感覚はだいぶ鈍っている気がする。
それから、そもそも最近食事の量が減っている。お腹があまり減らないのだ。以前のわたしの食生活では考えられない量しか食べていない。プラーナが本当にあるのかもしれないし、ただ単純に身体が老化しただけなのかもしれない。これも今のわたしではわからない。わからないが、別に身体が食べたいと思っていないのであれば食べなければいい、が今のわたしの答えだ。食事量や食事のバランスにも、絶対に個体差があるはず。すべての人間が同じ栄養素で健康になるとはそれこそ暴論なのではないかと思ってしまうのだ。なので、これからもわたしはわたしの感覚を信じる。いつか本当に不食になったら改めて報告したいと思う(そのような人をブレサリアンというらしい)。
最後に。この間お風呂上がりに髪を乾かしていたときに急に、「わたしたちは人間、”human being”だからね。”human doing”じゃないの、being”なの」という言葉が降ってきた。どこかでこういう文章を読んだことがあるのかもしれないし、本当にどこかから降ってきた言葉なのかもしれない。だが、確実に自分の思考では出てこない言葉だった。being、在り方。「何をするのか」ではなくて、「どう在りたいか」。わたしは、わたしが在りたいわたしでこれからも日々を過ごしていきたい。今のわたしの決意表明である。
これからもブログは気ままに更新をしていくつもりなので、見守っていただけるとありがたい。
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