手軽さゆえの不自由さ

宇宙船地球号の日々

 ブログで文章を書いていると、地から足が離れてしまうようなふわふわした感覚になる。なんだろうこの感覚は。心地良いといえば心地良いのだが、初めての感覚で少し戸惑っているところでもある。いわゆる世間の常識から外れていっているような怖さ。書いている内容が影響しているのか?普段会社員として働いている頭とは違う部分を使っているような感覚がある(10月下旬時点でこの時を振り返ると、この怖いという感情は闇側によって操作されている感情である。怖さを感じさせて、わたしがブログを書くことを辞めるように仕向けられている)。

 10年以上前にアメーバピグというものが流行った時期がある。数年前かと思って数えたら全然10年以上も経っていて焦った。確かアメーバのアカウントを作るとアメブロが利用できるようになるのだが、アメブロが出始めたときにわたしは毎日ブログを書いていた。学生だったので本当に他愛のない話を綴っていた。その当時オジギソウを育てていたのだが、オジギソウはかわいらしいピンクの花を咲かせることをご存じだろうか?親のガラケーを借りてオジギソウの花の写真を撮ってブログにかわいいでしょと載せていた。たぶん、その時のわたしの気持ちは「オジギソウかわいいでしょ?」ではなく、「オジギソウを載せるわたしがかわいいでしょ?」だったように思う。まぁそんなことはどうでもよくて、やっぱり昔から文章を書くのが好きだったみたいだ。

 そして文章を書くのはPCで書く方が好き。タイピングがいかにも「文章を書いている」という気分にさせてくれている。iPhoneで書くのも手軽でいいのだが、PCで書いているときよりも言葉の質量が下がる感覚がある。同じ言葉を書いたとしてもPCで書く方が言葉に温度を乗せられる気がしている。なぜだろう。

 昨日久しぶりに会った友人は、iPhoneを手放していた。連絡はiPadやPCで行っているらしい。iPadで連絡を取っている姿を見たときに、ふと思ったことがあった。

 iPadは片手のみで操作することはできないので、友人は連絡を取るときに両手を使って文字を入力していた。不自由そうに見えた。でも、一見不自由に見えるこっちの方が実は自由なのではないか?手軽にパッと連絡を返せることって、実は不自由なのではないかなんて考えてしまった。そして、片手で返せてしまう連絡と両手を使わないと返せない連絡って、後者の方が来た連絡に対して真摯に向き合えているような気がしないだろうか。同じ連絡をするという行為でも、向き合い方が異なるように感じる。

 スマホ1台で電話ができる、メールができる、動画が見られる、音楽が聴ける、いつでもインターネットで調べ物ができる。1つで色んな役割を果たしてくれるこの小型の機械はとっても便利でもう生活にはなくてはならない存在だと思い込んでいる。(もしかしたら思い込まされているのかもしれない。)でも、常に携帯できてしまう分、ずっと繋がり続けることへの圧迫感も同時に存在している。束縛されているような感覚。恋人同士のいざこざでも、連絡が返ってくるのが遅いという話はよく聞く。常に返信できる状態にいるのにそうしないことへの態度が、そのまま自分に対しての好意を図る尺度へと変わってしまうのだろう。

 場所も時間も制限されないスマホの方は集中力が分散してしまって、立ち止まって「ながら」作業がなかなかできないPCやタブレットの方が目の前のことに向き合える。心と身体は繋がっているというが、それぞれの機械への向き合い方がそのまま姿勢に現れてしまっているのだろうな。便利にしようとして発明されたものが、逆にわたしたちを不自由にしている。

 そんなわけで(?)ハンディで手軽なスマホではなかなか、わたしが伝えたい言葉に温度や湿度や重さを込めて文章にすることが難しい。本当はスマホからでもたくさん文章を書いていきたいので、しばらくは修行の日々が続きそうだ。地球における二元性ルールの中で生じる矛盾と葛藤の中で、わたしたちはいつももがいている。

 

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