今日は新月。月はなぜこんなにも規則正しく満ち欠けをするんだろう。月は、今日はだるいから全部隠れて新月になってやる、もしくはコンディションが良いから満月になって皆に見てもらおう、というような気持ちのムラがない。月のカレンダーというものがあるくらい、規則正しくて真面目。満月だと嬉しいし、細めの三日月も飴細工みたいで食べたらパリパリと美味しい音がしそうで好き。そして新月の日は少し寂しい。毎日形が違って新鮮な気持ちになるから月には特別な想いがあるのかもしれない。
愛子の友人で、小さい頃に家族と車に乗っていた時に大きな大きな月を見たことがあると言っている人がいる。スーパームーンの満月の日のような、「いつもより少し大きいかな」くらいの月ではなく、そのあたりにあるマンションくらい大きな大きな月を見たのだという。印象深く、忘れられない光景らしい。その愛子の友人だけでなく、同乗していた友人のお父さんや弟さんも見ており、今でもその話をするらしい。その月を複数名がきちんと目撃しているのだそうだ。
わたしも過去世に思いを馳せると、今現在空に浮かんでいる月には違和感を覚える。過去世の時代に見ていた月とは違う気がするのだ。特に愛子が日巫女でわたしが弥太郎だった時代、月はもっとずっと大きかったように思う。そして、今のように黄金色ではなく、銀色であった。今よりもずっと大きいが、もっと繊細な月であったような記憶が残っているのである。
新月で見えない日や月食などで月が欠けるタイミングで、過去のどこかのタイミングで月が入れ替わったということが起こったとしても不思議ではない。平安時代には月の光で文字を読めていたくらいだったのであるから、今以上に大きくて明るかったと考えても違和感はない。もし現代で電気が全て消えてしまったとして、今の月だけの光で文字が読めるくらい明るいのかどうかは疑問を感じるところである。竹取物語のかぐや姫でも月は非常に重要なモチーフとして描かれているが、現代でも絵本になったり映画になったりと様々な形で伝えられてきているが、どの媒体の作品においても、月は非常に大きく描かれていないだろうか。
(余談だが、最近深夜でも空が明るいことがあるが、それはケムトレイルが影響しているのではないだろうか。そもそもケムトレイルが陰謀論だという人もいるが、わたしは陰謀論などではなく本当にあると思っている。重金属やアルミなどを撒き散らしているので、その金属が反応しているのだと思うのだ。)
話が戻るが、月は本当に自然に生まれた衛星なのだろうか。そもそも、わたしたちは小学生のころからこの宇宙が生まれたビッグバンの話を聞かされているが、ビッグバンも「実際に起こったかどうかは分からない」とされている。そう思えば、この宇宙やこの宇宙の惑星や衛星などの星々は誰かが作ったもの、という説も全然あり得るのではないだろうか。
このブログでは、わたしの知るわたしの世界を思うままに綴っている。わたしの知る世界では、わたしたちが目にしている月はメルボル銀河の創造主であるフナブ・クによって作られたものである。月は冷たく、内部には施設が存在している。輝かしい外見とは裏腹に中はとっても暗い造りになっている(内部の施設は、体育館のようなイメージで、修行を行ったり才能を授与する授与式が行われる施設である)。月は、フナブ・クが愛子の魂に喜んでほしくて作った衛星だとキネシオロジーテストで出てきた。わたしは知っている、フナブ・クの圧倒的なプレゼントセンスのなさをよく理解している。実際に愛子の魂は月を捧げられても嬉しくなかったらしい。
そして宇宙には月は複数存在していて、ある月は修行できる体育館のような武道場のような施設が内部に備わっている。闇側から光側へ転生する意識レベル0の地点で、月の修行場で修行をし、それからようやく光側へ仲間入りすることができる。ただ、この闇側から光側へ転生する際に使われる月の修行場は、地球から見えている月にはないようだ。宇宙にある別の月に、そういった修行を行える施設が存在している。薄暗く、体育館のようにギャラリースペースがあり、その修行場で、愛子の魂がわたしの魂を見つけ出してくれたのである。そんな訳で、わたしは月が特別懐かしくって、わたしの魂が新しいスタートを切れた場所である月に、特別な感情を持っているのである。
コメント